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会報「乾坤(143号 2019.3.31発行)とびら

広報部会の お勧め4篇 (文中 敬称略)

01新年賀詞交歓会盛大に開催開催
1月19日(土)、喜山倶楽部で35名の参加で行われた。三俣会長の挨拶があり恒例の新春トークでは丹野芳和(人文14回)、小山孝雄(文理14回)、永井和雄(27回文乙)の3氏が壇上に立った。
 
人文9回(昭和54年卒)寺崎 誠
(前略)
小休憩を挟み懇親会に移った。吉野重彦氏(29回文乙)のご発声による乾杯に続き食事と歓談のひと時。笹谷仁則事務局長(人文1回)より講談師宝井琴柑こと綿貫麦氏(人文34回)が真打ちに昇進されるとの報告があり綿貫氏本人が挨拶、今年10月には昇進披露を行うとのこと。その後も高垣直澄氏(文理18回)のスピーチ。同氏は昨年末「現代語訳 後三年合戦記」を上梓された。当日会場でも販売。また堀川真氏(人文14回)は蔵王第二小学校当時の生活を語るなど楽しい話が続いた。
 瞬く間に時間が過ぎ、最後は寮歌「嗚呼乾坤の」、学生歌「みどり樹に」、「みちのくの」、そして寮歌「ひかり北地に」を高唱。長谷川憲司氏(理4回)の閉会の挨拶と三本締めの手拍子で終了、散会となった。
(高垣さんの本の売り上げは全額、会に寄付して頂きました。事務局)

新年賀詞交歓会に参加して
人文12回 吉田 勉

(前略)
実は私も検定資格こそありませんが、大の「城好き・石垣好き」です。小学校4年生の時に会津若松城(鶴ヶ城)を見学して以来、城めぐりを趣味としています。結婚後の家族旅行では城郭を核にしたルートが常でした。ちなみに、私が個人的に好きな天守閣は、会津若松城、彦根城、松本城等、石垣では江戸城、丸亀城、大阪城等です。
(後略)

02第14回山形大学OB&OGセミナー開催される
 理18回 斉藤 彰

山形大学全学部合同の同窓会、平成30年度(第14回)山形大学OB&OGセミナーが3月9日、港区芝浦の田町グランパークで盛大に開催された。
 卒業生の参加は100名を超え、大学関係者を含めると130名以上が集った。
 同窓会別の参加者は地域教育文化学部同窓会20名、蔵王会(医学部)2名、鶴窓会(農学部)15名、米沢工業会(工学部) 30名、ふすま同窓会本部6名、東京ふすま会は35名(文理19名、人文11名、理5名)。東京ふすま会の参加人数は今年も最多であった。
(中略)
 各同窓会の代表のあいさつが終わり、事務局から寮歌斉唱のリクエストがあった。東京ふすま会有志が登壇し、渡會成良氏(文理6回)のリードで山形高等学校全寮寮歌『嗚呼乾坤の』
を熱唱した。
(後略)

OB&OGセミナーに参加して
人文14回 堀川 真

(前略)
 各種講演の後は、お酒が入った交流会が始まります。山形大学の全学部のOB&OG103名参加は大人数ですが、すぐに話の花が咲き大盛況となります。我々はもう数年で60歳という世代ですが、このセミナーでは若手の部類です。もっと若手の後輩を確保すべく、超若手の人文学部平成23年卒業で弁護士になったという鈴木満君を発見し、我々のテーブルに引きずり込みました。この後輩の若手弁護士をオヤジ達が取り囲み、年はいくつ?出身はどこ?法律の専門は何?彼女はいるの?と、質問攻め。それでもこの若き弁護士は、嫌な顔一つせず真摯に且つ爽やかに受け答えするイケメンです。こんな優秀な後輩に巡り合えた満足感と、まるで自分が弁護士にでもなったかのような充足感に満たされながらお開きを迎えたのでした。


乾坤あーかいぶす

第20回は当時(2010年)、山形高校創立90周年を迎え、満91歳を数えた神津康雄氏の「寄稿」文です。(第116号平成22年3月31日より転載)母校卒業後70年経たそのとき、往時の社会状況や山形市民をも巻き込んでの学寮行事などに思い出をめぐらしながら書かれた貴重な一篇です。来年はふすま同窓会百年記念祭が催されますが、同窓生の皆さんにはどんな思いが去来するでしょうか。

03寄稿
(1)剣道六段審査挑戦の記
文理11回 庄司幸市

 平成29年11月26日、この日は生涯忘れ得ぬ日、剣道六段に挑戦した日である。
 剣道を再開したのは16年前、近くの小学校体育館で行っているのを知り、稽古を始めた64歳の時である。正直この年までよく続けられたと思う。継続できたのは一つは地の利、稽古場は徒歩2分の処にある。二つ目、規範に緩やかで自由闊達な雰囲気が自分に利した。人創り環境には一律的でないことも重大要点かと思う。「継続は力なり」自分も切磋琢磨とは程遠いが、剣道を多方面から考え、その理合いを愚直に続け実行した。
(中略)
発表、恐る恐る見に行った。自分の受験番号を目にした時、「ふー」と深い息を吐いたこと、鮮明に記憶している。5年後七段審査を迎えるが、行ける処まで挑戦したい。そう思って稽古場通いをしている日課である。
(2)山大時代から50年 思い出すままに

 人文3回 金子敏雄

昭和44(1969)年4月、私は一浪して人文学部に入学した。この年は、学生運動の激化で東京大学等の入試がなかった
ため、多くの人が進路選択に影響を受けた。私も不合格を覚悟して、すでに合格していた関東の大学の下宿先に荷物を送る準備をしてから、合格発表を見に行った。
 入学後の一・二年は、学生運動で学内はにぎやかであった。
 私は、同じく一浪して入学した山形南高校時代の部活動仲間に誘われて、バスケットボール部に入部した。チームは、教育学部や工学部等の選手の力で、インカレ東北大会を勝ち抜き、全国大会にも出場した。先のオリンピック時に建設された駒沢体育館や代々木第二体育館で試合したのを覚えている。
(後略)

04投稿

(1)わが”受験番号一番”の奇跡
文理2回 小笠原八郎

昭和25年3月、文理学部文科の受験番号一番は私である。入学試験の成績一番や卒業時の学業一番なら価値を有するが、受験番号一番は、それ自体まったく無価値である。ところが私にとっては、青春の一時期どう考えても奇跡としか言いようのない事情―即ちこれが一番ではなくて二番だったら全く別の平凡なストーリーになっていただろうとしか思えない―が生じていたのである。しかもその奇跡は1回だけでなく小さな奇跡が3回連鎖して生じていたのである。
(後略)

(2)学寮の思い出 「アルバイト」
文理16回 後藤雍正

◆色気は損気
(前略)
対象者を選び出していくのであるが、あるところで何人か婆さんが続いた。そのうちの一人を、婆さんの隣の番号の若い女の子に入れ替えたのである。これが間違いだった。その若い女の子を訪ねてもいないのである。(後略)

◆家庭教師
(前略)
実は、このお宅に行くある楽しみがあった。家族と一緒にとった夕食がすごく豪勢なのである。
(中略)
今振り返ると、このお宅でのアルバイトは私にとっては、家族だんらんの夕食を共にさせてもらい、また、栄養補給ができたありがたいバイト先であった。
 あれから五十年がたつ。あの時の小学生も今や還暦の年頃である。まこと光陰矢のごとし。

(3)追想  新関岳雄先生
人文2回 黒田多聞

(前略)
68年9月号特集城下町・金沢、萩、角館の紀行である。アア、あの新関さんか。文末に山形大学教授とある。
 「黒田君」と、いきなりきた。相対も対一も初めてなのに。懐に飛び込まれ、ガッチリ回しを引かれた感じだった。
 「太鼓、貸してくれよ」これで、どうにか体勢を持ち直した。予想の処だったから。
(中略)
「そうか。君は役者なんだ。今日もなかなかだったよ。いや、失敬。太鼓、ありがとう」仕掛けた技を、見事に返されたというか透かされたというか。見送りを忘れかけている私がいた。




賀詞交歓会 出席者

山高   永井和雄 森 参治
真野孝雄 鈴木隆司 吉野重彦

文理学部 中里祐二郎 丹羽武正
渡會成良 高橋正光 高山今朝雄
林 信行 津森幸枝 庄司文啓
佐藤輝和 小山孝雄 稲村英夫
後藤雍正 原田康司 三俣壯一
稲村三夫 柴田憲章 高垣真澄

人文学部 笹谷仁則 堀切一夫
黒田多聞 寺崎 誠 吉田 勉
丹野芳和 堀川 真 綿貫 麦

理学部  五十嵐吉郎 伊藤英孝
長谷川憲司 高橋敏夫 斉藤 彰
以上35名