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会報「乾坤(141号 2018.8.1発行)とびら

広報部会の お勧め4篇 (文中 敬称略)

01総会開催
5月19日(土)学士会館38名参加。理事会・総会では全議案が満場一致で承認され、記念講演は29回文乙新田孝二氏が「民法改正について」と題して話された。
       
  文理16回(昭和43年卒)稲村英夫
(前略)
第1部 理事会・総会
(中略)
最後に会長より役員改選(案)の説明があり、全議案が満場一致で承認され、閉会となった。
 第2部 記念講演
民法の成立過程では、幕末からの不平等条約の改正に必要
だったこと、フランス民法を倣ったが反対意見も多く、ドイツ民法も参考にして明治31年施行されたとのことだった。そして今回の民法改正は、分かりやすい民法典作成を目的とし、平成32年施行される。
(中略)
第3部 懇親会
(中略)
乾杯は山高21回理乙の上田清基大先輩にお願いした。御年98歳、姿勢も歩みもお話も矍鑠としておられ、このような先輩が居られると誠に心強い。高らかな乾杯の後、懇談に移る。
(後略)

(1)総会に参加して
                人文9回(昭和54年卒) 林ふじよ
(前略)
第二部、記念講演、「民法改正について」、山高文乙新田さんから講義がありました。内容は、現民法成立の流れと、改正の目的、平成32年から実施される改正内容を、いくつかの具体例をあげて説明してくださるものでした。普段の私の生活では、契約やトラブルがない限り接点がない民法。しかし、いつ何時自分や家族など、民法の知識が必要になるか予測できないものです。「わかりやすい民法法典作成の意向」は、とても興味の湧くところでした。
(中略)
今回、総会に参加させて頂き、また新しいふすま会の方々と知り合いになれました。皆様、山形を離れた今でも、心に熱い思いを持っていらっしゃいます。私のような不出来な人間ですが、またお話を聞かせてくださればと思っております。ありがとうございました。

 総会出席者
山  高 上田清基 永井和雄
真野孝雄 森 参治 新田孝二
吉野重彦
文理学部 吉田正文 髙橋 一
丹羽武正 吉田良吉 渡會成良
高橋正光 渡部徳正 高山今朝雄
高橋俊彦 阿部孝雄 林 信行
津森幸枝 木下紀捷 佐藤輝和
八木正毅 小山孝雄 稲村英夫
後藤雍正 原田康司 三俣壯一
稲村三夫 柴田憲彰 高垣直澄
人文学部 笹谷仁則 堀切一夫
林ふじよ
理 学 部 五十嵐吉郎 伊藤英孝
高橋敏夫 斎藤 彰(以上36名
02第21回ふすま寮歌祭開催
7月7日数を重ねて21回目のふすま寮歌祭が喜山倶楽部で開催された。
               29回文乙(昭和24年修) 新田孝二

学制改革で旧制高等学校はなくなってしまったが、感性豊かな高校生の詩情のこもった寮歌は健在である。とくに山形高校の寮歌はいいね、と寮歌祭では評判である。山形大学になってからもいい学生歌は結構ある。

(中略)
 
ここでハプニングがあった。今日が誕生日、しかも88 歳の米
寿のお祝とのこと。29回理の浅田さん、文理2回の髙橋一さん
のお二人である。お二人のスピーチがあり、盛大な拍手でお祝した。

(後略)

03乾坤あーかいぶす
第18回は瀬野尾純二氏の「もう一つの戦争体験」です。(第111号平成20年8月1日より転載)今年ももうすぐ73回目の終戦記念日を迎えます。戦争体験のお話は色々見聞きしますが、やはり民間人の体験談は貴重です。筆者は小学低学年で体験。満州でのあのソ連の一方的な参戦でその大変さは
想像を超えるものです。
 瀬野尾氏は平成28年7月9日逝去

戦時中、私達一家は中国東北部(旧満州)に住んでいた。ロシア(旧ソ連)国境から100㎞足らずの街、牡丹江市が私の故郷である。ここで小学3年生までの8年間を過ごした。一家は5人家族で、両親と4歳年上の兄と4歳年下の弟の3人兄弟
である。父が満鉄の社員だったので、一家は社宅住まいだった。
(中略)
そんな状況で迎えた昭和20年8月9日、突然ソ連軍が中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻してきた。この日を境に、これまで戦争とは無縁と思っていた我が家の生活が
一変するのである。ソ連軍の侵攻が始まると即日、社宅の住人に対して退去指令が出た。国境から直線距離で、わずか100㎞足らずのこの町にとってソ連軍の侵攻は、一刻の猶予も許されない程逼迫した状態にあったらしい。
(後略)
04寄稿3題

(1)羅針盤
     29回文甲(昭和24年修) 和泉恭平

私は小野田セメント社(現太平洋セメント社)に入社、工場、本社、支店、子会社と転勤し昭和48年ブラジル・小野田へ
赴任した。
 私はここで三井グループの忘年会、ゴルフ界の集まりでブラジル・トヨタの社長となっていた酒巻和男氏と会う機会を得
た。

(中略)

唯一捕虜となったことが分かった酒巻氏はその存在が極秘とされていた。
 私たちはその後、酒巻氏から捕虜生活については聞くことはなかったが、記録により捕虜時代の酒巻氏の写真を見ると両頬に煙草の火を数カ所押しつけられた痕がみられる。
 捕虜収容所では自決を試みる
も思いとどまり、また同じく自決しようとした日本人捕虜の説
得にもあたり、多くの日本人を救っている。通訳としても働き、捕虜としての態度が立派であったためアメリカ軍関係者も
彼を賞賛した。

(中略)

 酒巻和男氏は81歳でこの世を去った。吾々凡人の次元を超えた生死の世界を生き抜いた酒巻氏のごとく逞しく生きていきたいと思っております。(終わり)

(2)我が人生の軌跡
          文理8回(昭和35年卒) 佐々木 正治

私は、岩手県南部の農村の出身で、昭和31年に山形大学文理学部に入学し、直ちに「学寮」に入りました。寮生には北海道の出身者が多く、親しい友人にも恵まれ、12畳4人部屋での炭火鉢を囲んでの談笑など楽しい思い出もありましたが、時折の先輩のストームに襲われたりしての怖い思いもありました。

(中略)

57 歳の時に35年間のサラリーマン生活を退職し、現役時代の知識と経験を生かすべく、土地家屋調査士の国家資格を取得して事務所を構えて土地の調査や測量及び土地・建物の登記業務を行う自営業に転身した。

(中略)

 
80歳を過ぎた最近は専ら健康と体力の維持のことを意識して
散歩や体操などを実行するよう心がけています。


(3)日本語教育に関わって
            理15回(昭和60年卒) 明石 庸子

(前略)

私は今、地域ボランティアの日本語教室と都内の日本語学校で、外国人に日本語を教えています。ボランティアは15年目、そして日本語教師は5年目に入りました。

(中略)

日本語学校の学生の来日目的は、大学や専門学校への進学が主ですが、問題なのは、就労ビザがもらえないので、留学ビザで来日する学生もいることです。

(中略)

中には就労目的の学生だけを集めた学校もあるようです。学校をやめて不法滞在者、不法就労者になることは避けられるでしょう。しかし、これが学校と言えるのでしょうか。
 これらの問題は個人で解決できる問題ではありませんが、こういった社会の一面を知って、私たちも国も日本の将来を真剣に考えなければならない時が来ていると思います。